主夫でもある私がテレビをつけながら家事をすることがよくある。たまの一人の時間なら音楽を聞きながらなのだろうが、近頃テレビをいつもつけていたおばあちゃんの感覚がよくわかる。たぶん「会話」の感覚を感じていたいのだと思う。

昼にテレビなんかつけていると、悪名高いワイドショーくらいしかやっていなく、それもいつも、どこでも同じネタを繰り返している。今なら「森友問題」、「角界問題」少し離れて「北朝鮮対応問題」くらい。その他は、その時に食いつきたくなるネタ次第。

このトップ3はいまでこそ、その見方はかなり固定されてきて、ワイドショーのコメンテータはだいたい言うべきことは決まった感じになってきた。しかし、問題の芽がで始めたころは、少ない情報のなかで「そこまで言えるのか」、「それはあくまで個人的な推論だろう」みたいなことが、「選ばれた人」の口から出てきて、「選ばれたメディア」から放送されていた。
私みたいな社会を斜に見る人間は、「それはおまえの個人的な感想だろ」と思いながらみているが、その言葉を何度も何度も浴びているうちに、かれらの言葉が染み込んできていることに気づく。これは私自身に染み付いたのか、社会の空気がそのように変化したのかはわからない。

コメンテータはテレビの前で、質問をされれば何らかのコメントをしなければいけない。仕事だから。その言葉はあたかも多くの人たちの代弁のようになっていく。そしてその言葉は空気となって、社会に影響を持ち始める。そして社会がそのようになる。「森友問題」にしろ「角界問題」にしろ、今の見方を作り出したのは、当初のコメントたちだったと思う。主夫業の定点観測から、感覚的にそのように理解している。

人があつまり、人が話す、そんな場面に仕事柄多く立ち会っているが、「話すこと」(実は話させられていたりする)は実に怖いことだと思う。人々が話す毎に、その場の空気の輪郭は一筆一筆に描かれていく絵のように形を作っていく。その線は消されることなく、だれが描いたということなく、どんどん積み重なっていく。そんなことを思うと、白紙に初めの一筆を入れることがさらに苦手になってくる。