私もかなりのおじさんになり、とにかく口が開くようになってきた。そのため、相手の話を待つ時間を長くとれずに、よく相手の話出すタイミングと衝突事故を起こす。「いかん、いかん」と思い、開く必要がないときは、なるべく黙るよう意識しているのだが、事故に合いたくてあう人がいないのと同じ理屈で、事故にたびたびあってしまう。
そのためか、人がポイントもなく、ひたすらしゃべっているのをみると、少しイラッとしたりする。たびたび比喩的になってしまうが、禁煙中の人の前で、タバコを吸われている感覚なのか。

話は全く変わって、田舎に行けばいくほど、高齢者が多くなるのは現在常識化しているだろう。沖縄では「うとぅすいやたから」という言葉がある。「お年寄りは宝」である。自分が存在できるのは、先祖様があってこそなので、先祖を敬うことと、長生きしていることで、経験値が大きいということが宝にたとえられるのだろう。まったくその通りだと思う。しかし、話のポイントがずれることがストレスになることはよくある。こちら側の質問の答えをまったく返してくれないときにはつらい。ただ、人からみたら自分がその立場であるのではないかという恐怖感から、声高にはいうことができない。

また、話は変わるが、「限界集落」という言葉すら懐かしくなってしまうくらい、日本の田舎の自立はどんどん難しくなるという考えは日常化してきてしまっている。人口も減っていくし、財源も減っていくからであるが、その中で資源を増やしていくことが大切であることはだれも反対はせず、その筆頭にあがるのが「教育」である。しかし、財源がなくなるということは、貧困を生み、格差社会が貧困をさらに生んでいる。みんなに行き渡る教育自体がとても難しくなっている。

ここまでで今回の話の札がすべて出ているので、論を待たずにご理解いただいたかと思う。知恵があり、話があり、ある程度のお金がある人が、これから増え続ける。その代わりに、教育を買う世代の数はどんどん減り続ける。今までは、「習える機会」を買っていたのだが、これからは「教えられる機会」を買う時代になるのではないかとまじめに考えている。
自分自身が歳をとり、実感として感じられるのが、「人のためになりたい」である。自分のために何かをすることよりは、人のために何かをすることの方が生きるエネルギーになる。そのため、自分の子どものために何かできることは、とても幸せなことであることをたびたび感じる。それが社会のためにできるのであれば、最高である。
自分が貯めた経験、知恵、知見をだれか必要としていれば、喜んで与えたい、いやお金を出してでも与えたい人たちが増えていくのではないかと思う。そしてそれが若い世代を育てていくとなれば、なんとも素敵なシステムになるのではないかと思う。

あとはシステム作りになる。しゃべりたいことだけしゃべられても何の足しにはならない。「教える」ことと「教えられる」ことのマッチングと学習体系を作るためのカリキュラムが必要である。そこには誰かか、何か仕掛けが必要だが、すべてのリソースはもうすでにあるので、そんな難しい話ではない。これができれば、衰退するイメージの田舎とは違うビジョンが浮かんでくるかもしれない。

街でフェラーリが走っているのを見ると「お金の使い道はこっちだよ」と言ってみたくなるのはヒガミではないと信じたい。